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答え

難しい質問をいただきました。
心を許せる人はいるか?という人生を背負ったような重い問いかけに今日一日答えを見つけようと試みましたが、来月で退会を決めたフィットネスクラブのジャグジーの中で結論が出ました。

「オマエ、今オレのこと見ただろ!」
と、因縁をつけてくる兄ちゃんは、自分が見られてるということは自分が見たから知覚できたということを忘れて(というか棚に上げて)、見「られた」という捉え方しかできません。というかしません。自分が見なければ見られたと思うことはなかったのです。

自分はどうか?ということに尽きるのです。

心を許せるような人がいるかと聞かれれば、即座にいないと答えます。
でもそれは、自分が心を開いていない、ということに他なりません。
誰も愛してくれないと嘆く人は、恐らく誰も愛したことがないのではないでしょうか。
他者の問題ではなく、まず自分はどうなのか、から始めなければなりません。

たぶん、子供の頃から、僕は誰に対しても心を閉ざして生きてきました。
それは自分を守る方法でもあり、生きていくために必要な手段だったのかもしれません。
遺書を残して死んでしまう子供が学校でイジメられていた場合、その子供はかわいそうで、イジメた奴ら、先生、学校、教育委員会などは全て悪者扱いですが、死しか選択できなかった本人だってたくさんの人に迷惑をかけているわけだし、何より、そんなことで一々死んでいるようでは生物としての生命力が元来欠如しているとしか思えないほどに、生きていくことは辛く大変なことであることに直面した時に、まず自分が生き残る方法を選択しなかった愚かな奴としか、僕には思えないのです。別に立ち向かわなくてもいいし、逃げたって構わない。自分が死ぬくらいならむしろ、イジメた奴らこそ死ぬべきだと思うほうが自然ではないかと思うのです。
たとえが極端で支離滅裂ですが、僕も過酷なイジメを受けてきた身であり、それは決して一方通行の単純な図式ではなく、どちらにもそういう状況を作り出す要素が存在するのです。強弱とか善悪といったわかりやすい世界ではなく、時にはミンシュシュギの作法に則った理路整然としたイジメというものが行われるのです。それを子供は残酷だとか、担任のセンセイは何をしてたんだ、などと騒いでも、そこには暴力も笑顔もない、のっぺりとした仕打ちが横たわっているだけなので、仕返しの手段としては右手にナイフを持つしかないような深い絶望感に襲われるのです。

僕が願ったのは自分が死ぬことではなく、相手がこの世から消えてくれることでした。
希望通り、一人残らず目の前から消えてくれました。
別に死んだり、殺したりしなくても、です。
そして、世界が変わる度、そこには形を変えた試練が幾つも幾つも待ち受けていることを知るのです。イジメは人生の試練のほんの一部に過ぎなかったのです。

それでも乗り越えられない人は遺書を書いて、「イジメられた」という受身のまま生涯を終えるのでしょう。

子供の頃の苦い経験を言い訳にして、僕は群れから遠く離れた生き方を選びました。
だから、今までも、今も、これからも、こころ許せる(許したい)人に出会ったとしても、僕が心を開かなければその人は静かに去っていくだろうと思います。

自分がどうするか。答えはただそこにだけ存在すると思います。

※だからって何十年もたって復讐するほどの執念も信念もなく、もし再会したら笑って握手でき
  るだろうとは思いますが...

by ten2547 | 2006-10-15 23:35 | 白書