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15の春

その時、僕は何を考えてたんだろう。
15歳のころの日記を開いてみる。あまりに直接的な表現に思わず苦笑する。
悩んでいる。受験のこと、恋愛のこと、人生のこと、家族のこと、友達のこと、そして、幼い僕を突然襲った残酷な運命についても..言葉は稚拙だけど、今よりずっと素直に自分と向き合っていたような気がする。あふれ出る衝動を抑えきれず、人に言えないような恥ずかしい行動に走った時もあった。挫折し、失望し、時には歓喜し、何だかよくわからないけど、自分にとても厳しい。でもそれは、自分に甘かったからこその叱咤激励だったのだと思う。それは今でも大して変わらない。自分は弱く、だらしなく、だけど自分の気持にはいつも正直であろうとして玉砕した日々、生きることの意味を自分なりにつかもうと必死だった。
念願の高校に合格した日の喜びと、その後の悲惨な高校生活の対比を見ていると、自分のとっての転換期は高校時代だったのだと思う。ムリして入った高校で、僕は現実の厳しさと自分の甘さに直面し、最初は逃げていた。もう逃げるところがなくなって、自分ではどうしようもなくなった時、追い詰められた手負いのネズミは最近の若者のようにそのエネルギーの行方を本能に委ねようとしていた。理性の枠組みをあっさりと外してしまう「魔の時」がいつ訪れてもおかしくなかった。だからって親を殺めることもなく、自ら逝くこともなく、精神を病むこともなく、何とか、本当に何とかここまで生きてきた。かろうじて僕は人間の皮一枚でつながっていた。
それは単に僕が臆病だったからで、強い精神力とか自制心とかキレイなもののおかげではなかった。キレなかったのは勇気がなかったから、ただそれだけだろう。
15歳で人生の悲しい節目を迎えた少年たちがいる。
危うい年代は受け止める器の大きさと、自分を取り巻く出来事の大きさに戸惑う。それはあまりに狭い世界でのことで、まだ世の中を知らない彼らにはそこを脱出する手段さえ思いつかない。いくらでも楽になる方法はあるのに、目の前の障害を消し去ること、ただそれだけが自分を守る方法だと、経験ではなく、本能が指図する。その瞬間は動物に還っている。脳内伝達物質や伝達神経系が一瞬途切れるのだ。
かくして自己防衛に成功した彼らは、敵を倒した安堵感とそれが社会的には許されないという自分の知らない世界の基準で裁かれる別の違和感の中で「反省の日々」を送ることになる。
時には遠くまで逃げたっていいのにね。撤収!と叫んで白旗揚げても構わないのにね。きっといつか知る。自分が半径2キロの檻の中しか知らなかったことに。世界は広く、その中では自分の存在も悩みも小さなものだったことを。あの時、自分の身体いっぱいに溜まっていた悲しみ、憎しみ、絶望、恐怖、その全てが実は自分とは関係のない社会的な枠組みで、知らない誰かによって作られた虚構のようなものであることに。な~んだ、こんなもののために僕は大切なものを我慢していたんだ、そう気づく時が来る。そして15の自分を振り返り思うのだ。
あの時の自分は未熟だった。幼かった。そして自分に正直すぎた。と。

※だけど、大人になるとわかるよって言うのもウソだ。それは経験によるもので年齢の問題ではないことに気づけば、成人式の無意味さも明白だ。

by ten2547 | 2005-06-26 09:43